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最近では、中国とアメリカの間にかなりの緊張感が走っていますね。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200920/k10012627431000.html

米中貿易戦争などと言われたように、今後もアメリカと中国の間に緊張感が続く事が予想されます。

その中で、現代における中国はそもそもどういう国で、これからどういう事をしようとしているのか?という事に興味を持ちました。

調べた結果出てきた本がこちらの「超限戦」という本です。

これからはあらゆる手段を用いた戦争の時代が来ると予言した本

本書は1999年に出版されベストセラーとなった中国語の本の日本語版である。21世紀の到来を直前に控え、「新しい戦争」の出現を予言した内容であった。つまり、冷戦後の本格的なグローバル化とITをはじめとした技術革新の進展の中で「新しいテロリズムが21世紀の初頭、人類社会の安全にとって主要な脅威となる」と予言していたのである。原書は中国の現役将校が執筆したこともあり、出版当初から話題となったが、果たして、2001年9月11日にニューヨーク世界貿易センタービルでの同時多発テロが発生し、結果的に本書の予言は的中したのである。

一応注意しておきたいのは、これは中国の当時現役将校である喬良が書いたものであるが、あくまでも個人的な書籍であり、中国という国を代表とする公式見解ではないということです。

本のタイトルの「超限戦」とは、「従来の境界線と限度を超えた戦争」のことを指します。これまでの「戦争」とは下記の写真のように、軍事的な領域で軍事的な手段を用いて行うことだとされていました。

しかし、1999年に喬良は「超限戦」を出版します。その内容は「これからの戦争というのは、軍事的領域と非軍事的領域の境界線が曖昧になり、また、攻撃手段においても軍事的手段と非軍事的手段の境界線が曖昧になる。そのため、これらの多様な組み合わせによって、新しい戦争を優位に進める事ができる。」というものでした。

つまり、「戦争に勝つためには、どんな手段も使う時代が来る!」とした予言した本だったのです。

しかし、出版した1999年の当時は多くの人がこの意味を理解できず、あまり人気がなかったそうです。なぜなら、そこに倫理観がなかったからです。「いやいや、戦争と言ってもそこまで何でもして良いわけないでしょ。」と

その後にあの9・11が起こり、予言を的中したとしてこの本が有名になったそうです。

Kent Kobersteen, former Director of Photography of National Geographic

それは今まで「戦争」というのは軍事的な領域で軍事的な手段を使うというのが常識であった価値観の終焉を象徴する出来事であったと喬良は主張しています。

具体的なこれからの戦争像

喬良はこうした戦争の領域や手段が多様化するにつれ、「組み合わせ」こそがこれからの戦争の需要な要素であると述べています。

具体的には以下のような要素を組み合わせた攻撃こそがこれからの「戦争」であるとしています。

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すでに十分に情報化された二つの先進国の間に戦争が起きたと仮定しよう。従来の戦法に従えば、攻撃する側は一般的には、縦に深く、正面に幅広く、高強度で立体的な方式で敵国に突撃を行うだろう。その手段は衛星偵察、電子攪乱、大規模な空襲プラス精密攻撃、地上部隊の回、水陸両用部隊の上陸、敵後方への空挺部隊の投下……などにほかならず、その結果は、敵国が敗北を宣言するか、そうでなければ自らが傷つくかである。

ところが、組み合わせ戦法を使うと、全く違う状況、違う結果になるかもしれない。例えば、敵国に全く気づかれない状況下で、攻撃する側が大量の資金を秘密裏に集め、相手の金融市場を奇襲して、金融危機を起こした後、相手のコンピューターシステムに事前に潜ませておいたウイルとハッカーの分隊が同時に敵のネットワークに攻撃を仕掛け、民間の電力網や交通管制網、金融取引ネット、電気通信網、マスメディア・ネットワークを全面的な麻痺状態に陥れ、社会の恐慌、街頭の騒乱、政府の危機を誘発させる。そして最後に大軍が国境を乗り越え、軍事手段の運用を逐次エスカレートさせて、敵に城下の盟の調印を迫る。

これは孫子の「戦わずして人の兵を屈する」の境地までは達しないものの、「巧みに戦って人の兵を屈する」ことだと言えるだろう。こうして二つの戦法を比べると、どちらがすぐれ、どちらが劣っているかは自明の理である

このように、戦争の領域や手段が多様化するにつれ「組み合わせ」による攻撃を行う事が可能となり、これこそがこれからの戦争の重要な要素であると述べています。

子ども達も既に戦地にいると等しくなる

そうなってくると、もはや戦争領域と非戦争領域の境界は曖昧になってきます。また、軍人と非軍人の境界も曖昧になってきます。

学校の平和学習では、「戦争」は軍事的領域として、日常とはかけ離れたものとしてよく紹介されます。そこでは「戦争はもう2度と起こしてはならない」という事が強調されていますが、今日のグローバル化した社会では戦争は既にあらゆるところで展開されており、子ども達も既に戦地にいると等しい状況にいることになります。

唯一違うのは、今の残酷さは両軍の殺し合いとは別の方式で拡大したことだけだ。ロッカビーの航空機墜落事件、ナイロビとダルエスサラームの爆破事件を思い出してみればよい。また東南アジアの金融危機を考えてみればよい。この別種の残酷さが何を意味しているか、理解に難くないはずである。

これこそ、グローバル化であり、グローバル化時代の戦争である。一つの側面にしかすぎないけれども、心を痛ませる側面である。こうした側面が世紀の交代期に立っている軍人に向かってきたとき、軍人一人ひとりが自問自答すべきではないだろうか――われわれは何ができるのか、もしモーリス、ビンラディン、ジョージ・ソロスのような連中が明日の戦争の軍人になれるというならば、軍人になれない者がまだいるだろうか、もしパウエル、シュワルツコフ、

ダヤン、シャロンらも軍服を着た政治家であるとするならば、政治家になれない人間がまだいるだろうか、と。これこそグローバル化とグローバル化時代の戦争が、軍人に投げかけた困惑である。

軍人と非軍人の境界がすでに破られ、戦争と非戦争の間の溝がほとんど埋められ、あらゆる難題がグローバル化の趨勢によって環節が互いにリンクし、かみ合うようになった以上、解決のカギを探すことが必要になる。もしこれらのカギが戦争の大門の上にひっかけられているならば、このカギはすべての錠前を開けることができるはずである。そしてこのカギは、戦策、戦略、戦芸から戦術のすべてのレベルに至る規模に適応し、また政治家、将軍から兵士までの

一人ひとりの手に合うものでなければならない。

「超限戦」のほかにどんな適当なカギがあるのか、われわれには思いつかないのだ。

米中貿易戦争、テロ、SDGs、あらゆる非軍事領域で戦争が展開されている時代、既に戦地にいる子ども達に私ができることは「困難な課題を多様な人と解決できるように育てること」それに尽きるのではないかと思いました。

むしろそうした教育を展開する以外に、「超限戦」を展開してくる国から身を守ることは難しいのではないか。敵から身を守るために教育するというのは少し力が入りすぎている感じがしますが、これからの教育でよく言われる「困難な課題を多様な人と協働して解決する」という民主主義的な言葉の重みが、この本を通してより一層感じました。

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