自分が行った事は全て自分に返ってきます。
そして、年齢を重ねるにつれ、自分が認識する因果応報の範囲を広げなければ、色んなところで行き詰まってしまうといということを最近は感じます。
逆に言えば、自分次第でどうにでもなるということです。
例えば、高校生まで私がイメージしていた因果応報というのは範囲が狭いものでした。「テスト勉強をしなかったから、テストの点が悪かった。」とか、「悪いことをしたから叱られた。」とかそんなレベルです。
しかし、この狭い範囲だといつか行き詰まってしまいます。物事がうまく行かなくなった時に、誰かのせいにしたり、運が悪かったとかそういう発想になってしまうのです。この状態だと、また同じ様なことが起こった時に、また誰かのせいにして、また、、、と延々とループを繰り返してしまいます。
この悪循環から抜け出すためには、自分がイメージする因果応報の範囲を広める必要があります。一見、自分には関係のない物事まで想像力を膨らませ、今何が足りなくて、これから何をするべきなのか、そこに自分ならどうアプローチできるのかまで考えることです。そうしなければ、また同じ失敗をしてしまいます。
僕の尊敬する方が「人生は「リング」と「らせん」によって、説明できる。」と言っていました。
世の中というのは、知らず知らずのうちに「受験」をさせられているということです。その合否決定は、周囲の世界全体ですね。つまり、知らないうちに「留年」しているし、知らないうちに「合格」しているということ。「留年」は文字通り、前回と同じ「リング」をやり直しです。そこで得るべき学びを得ていないのだから、当然ですね。因果応報です。
合格すれば、人生の景色が変わる。しかし、変わったかどうかを理解できるのは「自分」のみです。ここが大事ですね。つまり、自分の知覚力が低いとこの合格か留年かがサッパリ分からないまま人生が進んでいることになる。
大事なことは、全て「自分次第」であるということ。自分が強ければ、他人を救えるが、自分が弱ければ、そもそも自分すら救えない。そういうことです。
西川純先生はいつも教師が成長する条件として、「問題が起きても絶対に生徒や保護者のせいにしない。」とよく言っているのですが、それと近い感じがします。成長できる教師は想像力を膨らませて因果応報の仕組みをイメージできる一方で、ほとんどの教師は誰かのせいにして、成長できない。つまり、ずっと同じリングを回り続けていて景色が変わる事はないという事です。
自分自身も常に意識しておきたい事です。