今日は、研修で中学校の見学をさせていただきました。

 特に印象的だったのが、校長先生が話されていた特別支援のお話です。

 本校では、特別支援学級と通常学級を分けているが、これから特別支援をどのようにすれば良いか悩んでいるとのこと。また、特別支援の専門の方もいらっしゃるそうで、そちらの方のお話も伺いました。

 僕の疑問としては、「特別支援学級という特殊な環境で育ったあとに、どうやってその子は社会で障害を持っていない人達の集団の中で生きていくのだろう?」ということを感じました。

 話は反れますが、最近、自分の勤めている学校で特別な支援を要する生徒の情報をお聞きする機会がありました。

 まず、その数に驚きました。こんなにおるん?!という感じです。そして、中には『学び合い』でバリバリ活躍中の生徒もいました。一覧を見ながら「ほんまかいな」と思いました。

 それと同時に、なぜ自分は『学び合い』で彼らが障害を持っているということに気づけなかったのか考えてみました。

自由に動けるから、自分に合った学習スタイルでできるからなどなど、、

 色んな要因があると思いますが一番の要因は、障害を持った生徒とクラス集団がお互い最適な関係を学んで確立しているからだと思います。

 『学び合い』をしていると「あーあの子、そういうところあるよね。ま、そっとしとくか。」という場面があります。別に嫌な雰囲気とかそういうわけではなく、集団がテンプレートの場面として処理している場面です。

 そいういう場面に出会うと「あーこうやって、この子と集団の最適な関係は作られていっているんだな」と思うわけです。その過程は『学び合い』の授業だけではなく、様々な生活を通して、ゆっくりと子供たちが学んでいくのだと思います。

 これって、障害を持っている生徒にとっても。障害をもっていない生徒にとっても大事ではないでしょうか?

 障害を持っている生徒からすると、集団との最適な関係を学ぶ過程で自分の強みと弱みを知る事ができます。また、どこまで人に迷惑をかけても良いのか。どこからアウトなのかも学べます。

 障害を持っていない生徒も、そうした人との付き合い方を学べます。企業からしても、そういう事を学んでいる人を採用したいと思います。

 特別な支援が必要だ!と感じる気持ちは分かりますが、特別支援学級という特殊な環境に子どもを入れた先に、上記のようなことを学べるのか疑問です。

 そんまで特別支援に対して構えすぎずに、子ども集団の力を信じて任せれば簡単なのになあと感じてしまいます。子ども集団の力は大人からすると、だれが障害を持っている子なのか分からなくなるほど優秀です。むしろ、障害を持っている子は『学び合い』集団では「個性」として受け入れられます。

 ちょっと集団から浮いちゃったり、なぜか時間が過ぎているのに超集中モードのまま説明課題を一人だけしていたり、、かといって集団は嫌な雰囲気にはなっていない。あれは全部「個性」として集団から受け入れられていた場面だったのだと思います。

 そいうい場面を教育の現場で増やしていけば、色んな人が生きやすい社会になっていくと思います。

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