先日、「一人も見捨てない」の限界点というタイトルでブログを投稿しました。

Facebookでいろんな方からの反応があり、とても勉強になりました。

この件に関して、西川先生がFacebookの投稿で答えてくださいました。

空海と最澄が決別した理由は色々ありますが、その代表的なものに最澄が「釈理趣経」の借用を願ったのですが、空海がそれを断ったのです。その理由は、最澄の今の理解のレベルだと、曲解をしてしまうからと空海が判断したからです。

 この話を聞いたとき、へ~そんなことあるのかな、といまいちピンときませんでした。しかし、あるころから分かるようになったのです。

 おそらく、『学び合い』の中で一番難解なのは「一人も見捨てない」という考え方です。実は、このことの指し示すものには重層的なのです。そして、上位の理解をそれを理解できない人が知ると誤解をしてしまいます。

 これを本当に理解するには、『学び合い』がホモサピエンスの生存戦略、つまり、自己保全・種の保全のための戦略であることを理解しなければなりません。別なことで言えば、損得で考えることはけっして悪いことではなく、極めて健全であることを心の底から理解する必要があります。

 さて、誤解を恐れずに「一人も見捨てない」を階層ごとに解説します。おそらく、どこかの段階で「え?」と思ったり、「間違っている」と思うかもしれません。それはそれでいいのです。自分が違和感を持たない程度の理解で実践すればいいのです。

 多くの人には分かりやすいのは「一人も見捨てない」ことは良いことだからやろうというレベルです。これが今の常識に一致しているので、普通、そのように理解します。

 ところが、集団をリードする子どもにとっては、「一人も見捨てない」ことを実現するには負担が大きいのです。なにしろ、『学び合い』における規律的発言の8割は2割の子どもが発しているのです。パレードの法則の通りです。だから「良いことだからやろうね」では続かないのです。

 そこで「一人も見捨てないことは自分にとって得である」ことを語る必要があります。ところが語るべき教師自身が理解できない場合があります。つまり、教えられる子には得だと分かるのですが、教える子どもにとって得であることを理解できないのです。これを理解するには、東洋館で出版した初期の本を読まなければなりません。それを読めば、「分かる」ということが知識の伝達ではないことが実証的データで書かれています。ちなみに、西川ゼミでは最初の6冊と言って、新規ゼミ生の必読と書となっています。

 しかし、次の壁が来ます。それはどうやっても分からない子、出来ない子がいる場合です。国語、理科、社会の場合はド暗記でもなんとか出来る部分はあります。ところが算数・数学、体育、物理の場合は、個人差が大きく乗り越えられないのです。しかし、それこそがこれらの教科で『学び合い』を学ぶ理由です。社会に出れば、自分が易々と出来ることを出来ない人に出会います。逆に、自分には出来ないことを易々と出来る人に出会います。そうであっても、出来るからと言って優越感に浸らず、出来ないからと言って卑屈にならず、折り合いをつけてお互いに益のあることを実現することを理解しなければなりません。当然、教師自身がそれを理解する必要があります。

 この段階を越えるためには、『学び合い』が分かる授業を目指しているのではなく、幸せを実現するための教育であることを理解するのです。これを語れる教師の下では、子ども達は全員達成が出来なくても、全員達成を諦めない集団で居続けることの大事さを理解します。さらに教師の与えた課題に固執することなく、一人一人に合った課題にすることも可能であることに気づくのです。実際にある小学校では、知的障害のある子どもが課題が達成できませんでした。そこで子ども達全員(つまり、その知的障害の子も)が集まって話し合って、自分たちでその子に合った課題をつくるから、それを認めて欲しいと求めてきたのです。教師は「それで納得しているんだね?」と聞いたら、子ども達全員(つまり、その知的障害の子も)が強く頷いたのです。この集団において算数の成績は最終的な目的ではないことを知っているのです。

 さて、この段階までは難しいですが、倫理的な違和感を持ちません。しかし、以降、徐々に違和感をもたれると思います。

 子どもの中にはサイコパス、ソシオパスの子どもがいます。その中で、上手く立ち回れるようになった子はいいのですが、それが出来な子どももいます。そうなると、その子と関わることが全方位で損であることがあるのです。

 子ども達はどう対応するか?

 その子との付き合いを0にはしないが、関わりを減じるのです。職員室に困ったちゃんはいますよね。それに対する対応と同じなのです。ただし、それに至る過程の中で、やれるべきものはやり尽くしたと集団が納得する前に安易に切れば、後から後から離反が起こります。これも先に述べた最初の6冊にあります。

 しかし、これに対しては倫理的な違和感を持たれる人が多いと思います。だって、大人の困ったちゃんに対してはそれはアリかもしれないが、クラスの子どもにそれを許していいのか?という気持ちです。その人が理解していないのは、子ども達が『学び合い』を選択するのは自分の得だからです。それも、教師が中長期で損得を考えられるならば、クラスをリードする子どもは決して安易に切る行為をしません。それを私は信じ切っているのです。

 どうしても教師は問題となる子どもに目を向けてしまいます。そうなると、その子、その事の解決に悩みます。しかし、教師にはその子、その事を解決する能力はないのです。あるのは、その子、その事を解決する能力を持つ集団を育成することなのです。

 さて、本当に久しぶりに『学び合い』のことを書きました。何故書こうとしたかと言えば、西川ゼミ出身者が「一人も見捨てない」ことを悩んでいたからです。

 ゼミ生諸君ならば分かっていると思いますよ。私は、一度たりとも「一人も見捨てずに」なんて言ったことはなかった。逆に、「一人も見捨てずに」と言っている私を想像してください。おそらく、もの凄く変に感じると思います。その代わりに私がやっていることは、君たちのありとあらゆる悩み、恋人とのこと、恋人の親のこと、友人のこと、親のこと等々を、ホモサピエンスの生存戦略としての『学び合い』、生物学、宗教学、経営学、物理学を通して間髪入れずに応えているでしょ。その過程の中で、禅宗の「不立文字:文字に(依って)立たない」、「教外別伝:言葉の教え以外で別に伝わる」、「直指人心:人の心を(ここに大事なものがある、と)直に指さす」、「見性成仏:仏に成る本性を見る。ま、私の場合は見性成人:ホモサピエンスの生存戦略に従う」を伝えているのですよ。

 こう書くと、『学び合い』は宗教チックだと揶揄されるけど、私は常に実証的データと学術理論に基づいて説明しているよね。

 そもそも、本にはここで書いたことは書かないようにしています。だって誤解されるのは目に見えているから。でも、ゼミ生にはちゃんと口伝している。でも、迷う。何故だろう。もっと学びなさい。『学び合い』は分かりやすい授業、面白い授業を目指したものではありません。もっともっと上、2階層ぐらい上があります。私の本はもちろんのこと、ゼミで紹介した本を読みなさい。そうすれば私レベルへの入り口に立つことが出来るよ。

 基本的に子ども集団が「一人も見捨てない」と判断するのはそれが自分にとって得だからであり、子ども集団は安易に見捨てるようなことはしない。教師はそのような集団の育成に力を入れるべきであり、問題のある生徒の方を向いてはいけない。見捨てるラインは生徒集団が「やるべきことはやり尽くした」と判断した時である。だが、それはサイコパス等の明らかに集団に害を与える生徒の場合のみであることが多く、基本的に見捨てることは集団の損につながるため、そうなることは少ない。

と僕自身は理解しました。西川先生の投稿を見て気づいたのは、自分の悩みごとの主語が「教師」になっていたことです。「教師がどのラインが限界点になるのか決める」「教師がどうやって問題のある生徒を立ち直らせるのか」ということばかり考えていました。それよりかは問題の生徒に目を向けるのではなく、健全な『学び合い』集団の育成に力を入れたほうが絶対に良い結果になるなと気づかせていただきました。

まだまだ自分も勉強不足だと感じました。お盆あたりでもう一度本を読み返そうと思います。

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